〈兵庫・そして僕は、白球を追う3〉このままじゃいかん 朝日新聞 2010.07.06

高校野球 地方大会ニュースより
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 かつて、感化院、教護院と呼ばれていた「児童自立支援施設」という場所をご存じだろうか。今回はまず、その説明から始めたい。
児童福祉法に基づいて、都道府県などが全国に58カ所設けている。非行で逮捕・補導されたり、親からの虐待といった生活上の問題を抱えたりしている18歳未満の少年少女が入所している。

 約50人が集う明石市の県立明石学園もその一つ。五つある寮には、それぞれ寮長夫妻と子どもらが家族のように暮らしている。

 野球部員は15人。8日に近畿8カ所の児童自立支援施設が集まる大会に向け、練習を重ねている。上位2チームに勝ち残れれば、8月の全国大会に出場できる。そこは、彼らにとっての「甲子園」だ。

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 「サッカー部に入ります」

 キャプテンで捕手のダイスケ(14)は、昨年10月に同学園へ来た。野球をする気はなかった。中学でやめて非行に走ってしまった、一連の苦い思い出の一部だからだ。

 小学2年で野球を始めた。全国大会でベスト4入りし、5年生のときには台湾遠征に行ったこともある。しかし、友人と遊ぶのが楽しくて、中学1年の夏には練習をさぼるようになった。その後、バイクの窃盗や無免許運転を繰り返し、ここに送られた。

 ダイスケが暮らす寮の寮長・遠藤貴之(35)は野球部の監督でもある。「かつて投げ出した野球をやらせることで、一つのことを成し遂げさせたい」。半ば強引に野球部の練習に参加させた。

 しかし、相変わらずダイスケは「だるい、しんどい、帰りたい」が口癖だった。施設の職員に反抗し、教室に呼び出されれば机をけった。ミシン針で左手の薬指を刺し、墨汁をしみこませた「入れ墨」もやった。ダイスケは「すべてが嫌だった。とにかくここから出たかった」。面会に来た母親(41)にも「早くここから出してくれ」と言うばかりだった。

 だが、5月中旬。遠藤の妻で、ことあるごとにダイスケの不満の聞き役をしてきた雅(みやび)(35)から、捨て置けぬ話を聞かされた。

 「今年も大阪の施設が優勝するって言われているよ。明石の名前が全然挙がらなくて、悔しくない? 監督に力を貸してあげて」。雅が、近畿の児童自立支援施設の職員らが集まる場で耳にした言葉をそのまま伝えた。

 ダイスケは「わかりました」とだけ答えた。表情は変えなかったが、ハートに火がついた。「おれが何とかしたる」

 その単純さが若さなのかもしれない。

 6月中旬、ダイスケは授業参観で訪れた母親に言った。「野球が終わったら、家に帰りたい」。今までのただの「帰りたい」に、「野球が終わったら」が加わった。

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 ダイスケの「熱」は、徐々にチーム全体に伝染してゆく。

 二塁手のリョウタ(15)と右翼手のケンジ(14)。2人は4月下旬、腐葉土作りの作業中に脱走した。1週間、廃車の中で寝泊まりし、体は近くの公園の水道水で洗った。

 リョウタも野球経験者。中学1年で野球をやめると学校には行かず、けんかばかりしていた。入所後は、何となくやっていた野球。昔の「貯金」があるから、周りと比べても実力はあった。

 それが脱走後にあった5月の練習試合3試合で3三振の安打なし。「昔野球をやっていたということに甘えていた」。打席で追い込まれるまでバットを振らなかったのは、本気になればいつでも打てるというおごりが原因だった。

 気付けば、「遊びで野球をやっているようにしか見えなかった」ダイスケが練習中、大きな声を出すようになった。8〜10キロの走り込みをし、チームメートには打撃や守備のアドバイスまでしている。「おれもこれじゃいかん」

 6月の練習試合。1回表の第1打席、ファーストストライクを強振した。打球はライナーで右中間を破り、三塁打。一塁上のダイスケをかえし、先制点をたたき出す。「大会が近いですからね」。得意げに言ってみせた。

 ケンジは、2月の入部時は、ポジションをすべて言えなかったほどの初心者。なのに、「全国制覇」を口にする。最初は打てないし、守れない。でも最近、バットにボールが当たるようになってきた。「経験者とやっていると、自分もうまくなれるような気がする」

 エースは左腕のヒサシ(14)。身長176センチの体を大きく使い、ゆったりとしたフォームで投げ込んでいく。

 ピンチになればみんなが「落ち着いて投げろよ」と笑ってくれる。ダイスケは「ランナーが出ても刺してやるから」と言ってくれた。それがうれしいし、仲間がいるんだと実感できる。

    ◇

 児童自立支援施設の子どもたちにとっての野球とは、どんな存在なのか。かつて県内の別の児童自立支援施設で野球をし、食品関係の会社で働くエイジ(24)に聞いた。

 中学2年の時に仲間とひったくりをし入所。野球経験はほとんどなかった。練習はきつかった。でも、点を取った時にチームメートと喜び合える感覚がたまらなかった。ポジションは捕手。「チームにおれがいないと駄目やろな」と思えたのは、それまでの人生にはなかった。

 最後の試合は3打席ともキャッチャーフライ。悔しくて、施設を出た後も高校で野球を続けた。チームワーク、向上心は、仕事にも生かされているという。「野球がなかったらですか? 今の自分はないでしょうね」

 「全国」という言葉を口にする明石学園の子どもたちの強気さに、監督の遠藤は少しはらはらしている。「予選で負けてしまったら、どうなるかなって心配な子どももいる」。でも、「そうなったら、また新しい目標でも見つけてあげようか」と言葉を継いだ。

 それに、こうも思う。

 夢中で頑張った夏が、何かを変えてくれるかもしれないと。

(敬称略。少年たちの名前は仮名)

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 野球の季節ですね。野球に限らずいろいろな取組が行われていますが、一人ひとりにドラマがありますね。